広報ひゅうが平成19(2007)年4月号

山陰百姓一揆供養塔


供養塔全体


 日向市東郷町鶴野内には曹洞宗の「安禅山(あんぜんざん)成願寺(じょうがんじ)」というお寺があり、境内には古くから石塔や石仏等が伝わっています。中には市指定有形文化財のものもあり、その一つに「山陰百姓一揆供養塔」があります。
 「山陰村百姓逃散(ちょうさん)一揆」は、元禄3(1690)年に起こった事件で、延岡藩臼杵郡代梶田十郎左衛門の苛政に対して、山陰村や坪谷村等の百姓ほぼ全員となる千四百余人が高鍋藩領に逃散した一揆です。高鍋藩の仲裁により延岡藩と交渉しますが難航し、ついには幕府評定の裁断を経てほぼ要求を認めさせることに成功します。百姓の代表らは処罰されますが村人たちは罪を問われず無事に帰村が認められました。藩主有馬永純(ながずみ)は幕府から統治不行き届きの責任を追及され、越後の糸魚川へ転封になります。領地は一時天領、後に譜代藩と天領に分かれて統治されることになり、有力な外様大名が多い九州の勢力配置図を大きく塗り替えることになった事件でもありました。
 犠牲となった百姓の代表らは罪人として処刑されたために堂々と供養することが憚られてしまいますが、それでも恩を感じた人々はまだ世間が寝静まっている朝早くに供養に訪れており、「朝参(ちょうさん)供養(くよう)」と呼ばれるようになります。一揆から120年を経た文化8(1811)年には、庄屋寺原和右衛門と成願寺八世実門叟(じつもんそう)(和尚)により犠牲となった21名の法名が刻まれた「山陰百姓一揆供養塔」が建立されました。
「朝参供養」は時代を経た現在でも行われており、毎年お盆の8月13日に成願寺住職から手あつい供養がなされています。また、旧東郷町では平成12(2000)年に逃散に参加した百姓らが留め置きされた藩境となる都農町股猪野原(またいのばる)に「山陰百姓逃散一揆留置地之碑」を建立し、権力に臆することなく一致団結して協力し合った先祖の生き様を長く後世に伝えるとともに当地で亡くなった方々の御霊を篤く供養しています。


日向市文化財でも紹介しています。ご覧ください。

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