広報ひゅうが平成27(2015)年3月号

「西南の役」薩軍兵士の墓


市指定有形文化財「西郷南洲翁家来の墓」


 今回は東郷町に伝わる「西南の役」について紹介します。
 明治10年2月からの熊本城包囲戦に伴う各地の戦いで敗れた薩軍は、人吉や都城などで激戦を繰り広げますが敗戦が続き、次第に宮崎から北へ北へと追いやられていくことになります。8月上旬には耳川に至り、この地を天然の要害(ぬみ)(攻防上で重要な地点)として北岸に土塁や台場を築きますが、東郷町においても小野田や福瀬にかけて陣を敷いています。福瀬の松ヶ下にも当時の土塁が残っていて、対岸の横瀬には官軍の台場とされる場所が伝えられています。
 折りしも激しい雨に見舞われた耳川は濁流と化しますが、坪谷方面から現れた官軍は、砲隊の援護もあって渡河に成功し、激戦の末に小野田周辺を征圧しています。鶴野内の大工野コミュニティセンター前には周辺の住民が建てた薩軍兵士の墓があります。日付けが「六月廿八日」となっていますが、これは旧暦のようで新暦に計算すると8月7日となり、まさに耳川を挟んで激戦があった日と一致しています。
 小野田を奪われた薩軍は大谷川を挟んだ柿木田越えにて体制を整え直し官軍を迎え撃ちます。これに福瀬村にいた隊も援軍に向いますが、官軍の激しい攻撃に耐えることができず、山中へ四散し多くは間道を利用して門川へと落ちのびていきます。市道出口線沿いにある出口集落センターの近くには市指定文化財「西郷南洲翁家来の墓」があります。これは出口の民家に瀕死の状態で逃げ込み、ほどなく亡くなった薩軍兵士のもので、無念の死を哀れにおもった家主が建立したといいます。
 どちらも東郷町には縁もゆかりもない兵士かもしれませんが、現在でも樒や花が挙げられ、手厚く供養されているようです。


日向市文化財でも紹介しています。ご覧ください。

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