広報ひゅうが平成27(2015)年1月号

東郷町山陰の畝原覚之丞の墓


市指定有形文化財「畝原覚之丞の墓」


 日向市東郷町を走る国道327号と市道小野田大谷線の交差点近くに、江戸時代元禄3(1690)年におこった山陰百姓逃散一換で犠牲となった畝原覚之丞(うねはらかくのじょう)の墓があります。一見どこにあるか分かりにくい場所ですが、案内看板の横にある小さな階段を上ったところに数基の墓と一緒に並んでいます。
 百姓として逃散に参加したわけではありません。一揆の時に山陰にいた延岡藩家老の次男である林田半蔵や被官塩月市郎兵衛らと共に一揆への関与を疑われたようで、延岡藩の取り調べを受けています。一旦は解放されて百姓らの帰村説得の任を命じられることになりますが、どうしたことか市郎兵衛と山陰利国(としくに)神社神官の黒木兵左衛門らとともに佐土原藩へ逃亡してしまいます。長引く一揆に事態を重く見た幕府は、佐土原藩へ覚之丞らの召喚を命じて江戸送りにされることになります。伝馬町の牢獄では百姓の代表ら20数人らとともに厳しい取り調べが行われ、このうち5人が獄死するに至っており、このとき覚之丞も帰らぬ人となりました。
 墓石の銘には「元禄四未年」「常室利円信士之墓」「六月十二日畝原覚之允」とあります。当時の様子が記された『高鍋藩日記』の記述では、佐土原へ逃亡したのが元禄4(1691)年2月24日で、幕府評定所の判決が言い渡された6月23日にはすでに獄死しており、「六月十二日」という命日の記銘は事実に近いものではないかと思われます。
 また、この戒名は子孫である畝原家にも位牌として伝わっているものであり、成願寺の「山陰百姓一揆供養塔」にも犠牲者の一人として戒名が刻まれています。
 この「畝原党之丞の墓」は、地域の歴史と資料が結びついた大変興味深い事例の一つと言えるでしょう。


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