広報ひゅうが平成25(2013)年12月号

僧日要の功績


県指定史跡「僧日要の墓」


 日要(にちよう)は永享8(1436)年に細島で生まれ、姓は中村氏です。
 かつて日向国の大部分を領土化した戦国大名伊東義祐(よしすけ)が、家督争いに巻き込まれたことがありました。身の危険を感じた義佑が、京都へ逃れようと細島から船で出発しました。その時、彼を支持する家臣たちが連名で忠誠を誓う手紙を託したのが「水練の達人で知られる細島の中村某(なにがし)であった」と伊東氏の史書「日向記」に描かれています。日要はその子孫のようです。
 さて、日要は6歳の時に妙国寺の脇坊にいた日慮(にちりょ)の弟子となり、やがて延徳元(1489)年に安房(千葉県)妙本寺の第11世となりました。在職した26年間は布教とともに子弟教育にも努め、妙本寺屈指の名僧として知られる日我(にちが)を育て、それぞれの名をとった教義は「要我の法門」と呼ばれ称賛されています。
 やがて日要は永正11(1514)年に没し、その墓は細島にあります。その場所は彼が隠居した本要寺の跡と伝えられ、敷地内には有名な「的祈念」の碑が建っています。
 的祈念とは、文明18(1486)年に日知屋城内で刺客によって暗殺された伊東祐邑(すけむら)の怨霊が、日知屋、細島地区でたたり、それを知った日要が、法華経の三大秘法と言われる作法で鎮魂し、地元の伊太郎、伊次郎兄弟に破魔矢を射させて怨霊を退治したという故事を伝えます。今も、毎年立春を過ぎた最初の満月の夜に、それを再現した厄払いの行事が行われています。
 来年(2014)は日要の没後500年にあたります。本県を代表する歴史上の名僧である日要の業績を再確認するのには良い機会です。


日向市文化財でも紹介しています。ご覧ください。

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