広報ひゅうが令和3(2021)年3月号
ウイルスとのたたかいの記録牧水の祖父が残した「種痘人名録」

市指定文化財「種痘人名録」(しゅとうじんめいろく)
坪谷出身の若山牧水は、歌人として活躍しましたが、父の立蔵、祖父の健海は医師として東郷地域を中心に活躍しました。
このうち健海は、武蔵国(現在の埼玉県所沢市)に生まれます。隣家の漢方医の家に出入りし、そこの薬屋で奉公した後、江戸や福岡で漢学を学びます。天保2(1831)年には長崎へ行き、緒方洪庵などのもとで西洋医学を学んでいます。
その後、天保7(1836)年に坪谷へ来て家を建て、医院を営みます(現在の牧水生家)。坪谷に来たのは、江戸で知り合った下三ヶ(仲深地区)出身の水野榮吉の勧めによるものと言われています。
健海は、嘉永3(1850)年1月、再び長崎へ行き、当時流行病だった天然痘に有効な種痘術(牛痘ワクチンを用いた牛痘接種法)を佐賀藩医楢林宗建(ならばやしそうけん)から伝え受け、オランダ人医師モーニケの種痘術も観察しています。
天然痘は、感染力、致死率が高く、)高熱、発疹の症状があり、治癒したとしても顔や体に跡が残るため、非常に恐れられた病気です(日本では昭和30(1956)年)以降の発生はなく、WHOも1980年に根絶を宣言)。
長崎から戻った健海は嘉永3(1850)年3月、宮崎中村(宮崎市)周辺で種痘術を実施し、以降も美々津や坪谷・山陰などで2000人余りに接種したと言われています。このうち種痘人名簿には、嘉永3(1850)年から慶応2(1866)年までの200人を超える接種者の氏名などが記載されており、当時のこの地域の医療を知る上でも貴重な史料です。
本史料は、現在、若山牧水記念文学館に展示してあります。幕末・明治初期に当時の先端医術で人々の命を守った健海の活躍に思いを馳せてはいかがでしょうか。
日向市文化財でも紹介しています。ご覧ください。