広報ひゅうが平成19(2007)年9月号

黒田家臣の墓


幕末勤王家海賀宮門外二士の墓


 文久2(1862)年4月、京都伏見の船宿「寺田屋」では、徳川幕府に不満をもつ薩摩藩士が全国各地から集まった勤王志士たちとクーデターを計画していました。
 ちょうどそのころ、京都にいた島津久光(薩摩藩主島津忠義の父)は、藩士たちの計画を知り、寺田屋に使者を送ってクーデターを中止させようとしましたが、藩士たちが説得に応じなかったことから乱闘となり、6人が死亡、2人が重傷を負いました。
 これが「寺田屋騒動」といわれる有名な事件です。
 クーデターに加わろうとした志士たちは、島津久光の使者に捕われ、それぞれの藩に送り帰されましたが、中には薩摩藩士とともに鹿児島へ連行された藩士もいたようです。
 薩摩藩の一行は4月27日に船で大阪を出発、鹿児島へ向かいましたが、その中にいた秋月藩(黒田家)の海賀宮門や中村主計、千葉郁太郎の3人は細島で薩摩藩士に殺されています。
 「正法寺年中日誌」によれば、3人の死体は細島の「古嶋磯の端」で発見され、付近に「黒田家臣・・・赤心報国・・・海賀直求」と書かれた布や草履、羽織などが置いてあったようです。
 また、現場に駆けつけた長谷川孝平という役人は、検死調書に「この一件は怪談ものと見受け候」と書いており、事件の真相を解明するのは難しいと予想しています。
 3人が、いったい何のために、だれの手で殺されたのかは判明してはいませんが、3人の墓は「幕末勤王家海賀宮門外二士の墓」(通称・黒田の家臣の墓)として、県指定の史跡となっています。
 細島・御鉾ヶ浦から車で2〜3分、陸続きの島にある三士の墓に、みなさんもぜひ一度、お出かけしてみてはいかがですか?


日向市文化財でも紹介しています。ご覧ください。

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