広報ひゅうが令和元(2019)年6月号
新納院と入郷

梵鐘(県指定有形文化財)
鎌倉時代の建久8(1197)年に書かれた「日向国図田帳(ずでんちょう)」に「島津荘」という荘園のことが記録されています。島津荘は日向・大隅・薩摩の3カ国にまたがる広大な荘園で、平安時代の終わり頃、大宰府の役人だった「平季基(たいらのすえもと)」が今の都城市の一部を開墾したのが始まりと言われています。当時は、土地の個人所有が認められていなかったため、季基は関白だった藤原頼通に島津荘を寄進し、自分は荘園の管理者(地頭)として事実上の所有者の座についていました。
ところが、源平合戦で平家一門が敗れると季基も追われる身となり、島津荘からいなくなってしまいます。やがて、鎌倉に幕府を開いた源頼朝は「惟宗忠久(これむねのただひさ)」を島津荘の管理者に任命すると、忠久は姓を「島津」に変え、都城市の祝吉に御所を建てたと伝えられています。
さて、そんな島津荘の一部に「新納院(にいろいん)」と呼ばれる土地がありました。これは、今の木城町から高鍋町にかけての地域と考えられていますが、時間の経過につれ川南町、都農町、そして美々津町、美郷町にまで範囲を拡大しています。
美々津町の国道10号線沿いにある多賀神社には「日州新納院の多賀神社」と書かれた天正15(1588)年の棟札が残されており、東郷町羽坂区の硯野には、天文18(1549)年の梵鐘(釣鐘)があり、これにも「日州新納院山毛」と刻まれています。これらのことは新納院が児湯郡の境を越えて美々津や臼杵郡の東郷町山陰にまで範囲を拡げたことを物語っています。
旧東臼杵郡の東郷町、西郷村、北郷村、そして南郷村のことを「入郷」と呼びますが、これには「臼杵郡に入り込んだ児湯郡新納院の一部」という意味があります。
地名を探ると、私たちが暮らす町や村や地域の意外な歴史を学ぶことができます。
日向市文化財でも紹介しています。ご覧ください。