広報ひゅうが平成31(2019)年4月号
山陰組百姓逃散一揆

硯(市指定有形文化財)
江戸時代の元禄3(1690)年延岡藩の厳しい支配に耐えかねた山陰村と坪谷村の百姓らは、村を捨てて高鍋藩へ逃げるという逃散一揆を起こしました。
一揆は計画的で、老若男女の別なく村の百姓ほぼ全員にあたる1,422名が、9月15日の早朝に、一斉に逃げ出しました。
突然の事件に高鍋藩は、都農町股猪原の小屋に百姓らを集めて延岡藩とともに村へ帰るよう説得にあたりますが、事件は長期化し、とうとう徳川幕府が乗り出してくる事態となりました。
百姓代表らは江戸に送られると取り調べを受け、礫や死罪・遠島など厳しい裁決を言い渡されますが、百姓らの要求は認められることとなりました。
これで1ヶ月にも及ぶ一揆はようやく終わりを迎えますが、延岡藩主有馬氏は一揆発生の責任を問われて越後国へ移され、以後、延岡藩へは譜代大名(関ヶ原合戦以前から徳川家に仕えていた大名)が入ってきます。
また、延岡藩領のうち一部が、幕府が支配する天領に組み入れられることになり、九州における幕府の支配体制が一層強まることとなりました。このとき日向市域の多くも天領となっています。
当時の一揆の連判状を記したという小野田区の「筆ヶ原」や血判を押したという鶴野内区の「判場」、藩主に差し出した文書を書いたという硯、畝原覚之丞(かくのじょう)の墓、梶田山陰旧記、成願寺の朝参(ちょうさん)供養、山陰百姓一揆供養碑など、当時の出来事と関連する地名や品々・年中行事が今に伝えられています。
これらを大切に保存し、先人たちの苦労や功績を伝承していくことが、地域の歴史を後世に引き継ぐうえで、とても重要なことだといえるでしょう。
日向市文化財でも紹介しています。ご覧ください。