広報ひゅうが平成28(2016)年5月号

デ・レーケ突堤*


昭和22年頃の細島港。南北にのびる物がデ・レーケ突堤(写真中央)
写真提供:宮崎県北部港湾事務所


 細島港は、県内でも古い歴史を持つ港の一つです。時代とともに港は少しずつ形を変え、何度かの工事を経て現在の形に至っています。
 特に明治時代には、国内の主な港の改修工事が行われており、細島港も需要の高まる港として、県内の他の港より早い段階で工事の計画が進められました。その際、政府は、河川や港湾の工事において近代的な技術を持っていたオランダ人に指導を求めました。
 デ・レーケ(1842〜1913)は、政府が日本に呼び寄せた技術者の一人です。彼は明治6(1873)年に来日してから、30年もの間日本に滞在し、東京港、大阪港、博多港などの改修に携わりました。その中で、細島港にも足を運んでいます。細島港は、明治10(1877)年の段階で、赤江港、油津港、東海港などの中でも、最大の出入港船舶トン数を誇っていましたが、港内に土砂が流入し、入港に不便をきたすようになっていたため、県政の問題の一つとされていました。
 デ・レーケは明治24(1891)年に県内の港を視察し、細島港について、「港岸二堤防ヲ築キ以テ土砂ノ注入ヲ防ギ悪水路ヲ変更シ而シテ他ノ港湾二放流セシムルニ若カズ」と話したと、当時の史料に記されています。
 デ・レーケが視察してから3年、県は、細島港を南北に仕切る締切堤と、商業港から工業港へつながる運河を建設しました。完成した堤は親しみを込めて「デ・レーケ突堤」と呼ばれました。デ・レーケ突堤は、昭和初期の工事で100メートル程切り取られ、その後の工事の影響を受け、姿を消しました。現在は、工業港へ向けた運河の一部のみを確認することができます。
 活気ある港として「ポート・オブ・ザ・2015」に選定された細島港。デ・レーケには、細島港のどんな未来が見えていたのでしょうか。


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