広報ひゅうが平成26(2014)年10月号

明治期の漢学者日高誠実*


坪谷村の古文書


 日高誠実(のぶざね)は天保7(1836)年、美々津町上町で生まれました。日高家は代々高鍋藩主が参勤交代の時に使う御召船の船頭を務めていましたが、父謙三は学問好きが高じて書道や儒学を学び、「耳水」と号する学者となりました。
 また、誠実の母蔦子は、美々津の医者で俳壇の中心人物でもあった荒川利貞の娘でありました。こうした環境に育った誠実は、成人すると藩の命を受けて上京すること二回、帰郷後は藩校「明倫堂」の教授となりました。
 その後、明治5(1872)年に陸軍大尉に任官し、同7(1874)年に起きた「佐賀の乱」に従軍しましたが、それ以上に昇級することはありませんでした。もともと誠実は銃剣を振るうよりは文筆の才に優れており、軍人としての出世は眼中になかったようです。
 明治18(1885)年、陸軍を辞した誠実は縁あって千葉県市原市の梅ヶ瀬川渓谷に移住し、付近の官有地229町歩(約200ヘクタール)の払い下げを受け、そこに道を通し石垣を積み、邸宅を建てました。そして、貧富の別なく住民を集め、儒教や漢学をはじめ、書道、和歌、俳句、墨絵、篆刻(てんこく)、囲碁、将棋、三味線、琴など多種多様なカリキュラムを提供し、地域文化の向上に尽くしました。
 現在、梅ヶ瀬の渓谷は、千葉県有数の紅葉の名所として、大勢の人が訪れる観光地となっており、誠実の邸宅跡も残され顕彰されています。
 また、耳川のほとりに芽吹いた才能が、遠い房総半島で花開いたことをうかがわせる誠実の絵や書などは、美々津をはじめ、誠実ゆかりの民家に飾られています。

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