広報ひゅうが平成25(2013)年4月号

文化財から防災を考える2-遺跡の立地場所から分かること*


多くの遺跡は高台に(平岩馬込遺跡)


 東日本大震災の発生から2年。未曾有の大災害は、岩手、宮城、福島の3県の太平洋沿岸市町村に甚大な被害をもたらしました。歴史を振り返ると大地震や津波被害は全国各地で、繰り返し発生しています。
 本市に大きな被害をもたらしたとみられる地震は、記録上に残されているものだけでも仁和3(887)年の南海地震以来、23回も発生しており、特に明和6(1769)年には日向灘を震源とする最大震度6もの大地震が起きています。東日本大震災は、決して他人事ではないのです。
 ところで、本市には約2万年前の旧石器時代から奈良・平安時代にかけての遺跡が数多く残されており、ほとんどの場合、標高20メートル以上の高台に立地しています。ただ、紀元前300年ごろから開始された弥生時代以降の遺跡までもが高台から平野部へ降りて来ていないのが気になります。
 日本人は弥生時代に大陸から伝わってきた稲作文化を受け入れ生活してきました。そして、海岸に近い平野部では標高5〜10メートルの砂丘上に集落を構え、周囲の低湿地に籾をまき、水田耕作を行っていたと考えられています。実際、延岡市や新富町、そして宮崎市では、そうした集落や水田の跡がいくつも発見されているのです。
 ところが本市では、日知屋・財光寺地区に見られる砂丘列の上で確認されている弥生時代以降の遺跡は、2,3か所だけで、水田跡とみられる遺構も全く発見されていません。
 こうしたことから、本市の平野部は当時の人たちから見て、水田を開いたり集落を営んだりするのに適していなかったと考えられます。
 そして、その理由の一つに、たびたび襲来する津波や地震があったことは否定できないでしょう。

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