広報ひゅうが平成24(2012)年6月号
牧島山の台場(砲台陣地)*

愛宕神社の裏で見つかった台場(砲台陣地)
牧島山は、江戸時代に延岡藩の牧場があったところで、幕末には異国船警護のため、「台場(砲台陣地)」が築かれています。
この台場は、延岡藩が経費を負担し、作業には日之影の人たちが参加したようで、今でも土塁や石垣が残っており、東九州では屈指の史跡と評価されています。
また、この台場の西に繋がる塹壕は西南戦争の時に、台場をより強固なものとするために薩摩軍が築いたと考えられています。
ところが、先日、愛宕神社の裏で別の塹壕跡が発見されました。これは幅3メートル、長さ約100メートルの長大なものです。しかも多くの塹壕が「U」字形に代表される曲線を描いているのに対し、この場所の遺構は、何と直線状に構築されていました。
その後、幕末から西南戦争当時の史跡や遺構を調査している宮崎台場研究会のメンバーが当地を訪れ、金属探知機を使って調査したところ、塹壕跡の土の中から1枚の「寛永通宝」が発見されました。
この遺構については、西南戦争当時、薩摩軍が細島に出入りする官軍の船舶を監視する目的で設置した塹壕跡ではないかと考えていましたが、そうしたことも一度あらためて検討してみる必要がありそうです。
むしろ当地の塹壕跡は、西南戦争が起きた明治10(1877)年よりも以前に、異国船の襲来に備えて、台場とともに整備された防塁施設なのかも知れません。
さらに、台場の西の塹壕跡についても、同じ理由で築かれた可能性が出てきました。牧島山の歴史には、我が国の近代史を覆すような事実が秘められている可能性があります。