広報ひゅうが平成24(2012)年4月号

坪谷「四国西国納経塔」*


上野原にある「四国西国納経塔」


 牧水の里「坪谷」。尾鈴山系の山と坪谷川の清流は、県内でも屈指の自然遺産と言われています。
 今回、訪れたのは、坪谷川南岸にある上野原地区で、仲崎・多武ノ木方面へ通じる市道の脇に、高さ150センチメートルほどの石塔が建っています。
 この石塔の正面中央には「四国西国納経塔」とあり、嘉永6(1853)年正月の年号が刻まれています。また背面に刻まれた造立趣旨から、この石塔は「寺原常右工(衛)門」が「仲崎の山に五反三畝の土地を開いた」記念に建てたものであることがわかります。
 ただ「四国西国納経塔」は、善男善女が家内安全や病気平癒、商売繁盛などを祈願するため西日本の観音霊場と四国88所を巡り、各所に仏教の教典を納めた際に建てるものですから、上野原の納経塔は、そうした宗教的な性格を持つものではないようです。
 そこで、この納経塔をよく観察すると、常右エ門の名の脇に「与州真瑞」の文字が見えます。常右エ門は、四国伊予(愛媛県)の人だったようです。
 江戸時代は人の移住が困難な時代であったことが知られていますが、飢饉や疫病、大災害などにより、人口が減ったりして農地が荒廃すると、藩が領内の寺院を介して他藩から農民を受け入れることもあったようです。
 そこで、さらにこの納経塔をよく調べてみると、背面に「天保6(1834)年は大変な凶作で米の価格が跳ね上がり、嘉永3(1850)年も大風の被害があり、米が値上がりをした」との内容が刻まれています。こうした事情か、この坪谷の地に伊予からの移民がやってきたのかも知れません。
 ただ、この納経塔だけを根拠にして歴史を語ることはできません。これからも大切に保存し、また常右エ門についても研究していきたいものです。

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