広報ひゅうが平成19(2007)年1月号
塩見城跡
塩見の市営城山墓園は、塩見城跡の一部を利用しています。塩見城も先月号で紹介した日知屋城と同じように、伊東氏の支配を受けていた城で、伊東氏が島津氏に敗れたあとは、島津氏の支配下に入りました。
塩見城がいつごろ築かれたものなのかは今のところ明らかにされていませんが、今でも城跡のあちこちで戦国時代の陶磁器を見つけることができます。
また、城跡の北に連なる山の中には、敵の侵入を防ぐめにつくられた深い溝(堀切)の跡がいくつか残っており、かなり強固な城であったことがうかがわれます。
一方、塩見城跡の西側に位置する中村地区にも高平城と呼ばれる古い城跡が残っています。この城跡は、あまり大きなものではありませんが、城跡の中央に掘られた溝の中一からは戦国時代ごろの皿や茶わんの破片が発見されていますので、塩見城とほぼ同じころに利用されていたものと考られます。
もしかすると高平城は、塩見城の出城だったのかもしれませんので、周辺にはまだいくつかの城跡が残されている可能性もあります。
ところで、伊東氏を敗った島津氏は、塩見城に家臣を派遣していましたが、天正13(1586)年4月には島津氏の有力な家臣で、当時、宮崎城(宮崎市池内)を守っていた上井伊勢守が塩見城の視察に来ています。
そのときの記録によれば、伊勢守は高城(木城町)から尾鈴山の麓を通って美々津まで行き、そこから船に乗って平岩に上陸しているようです。
平岩からは、山沿いの道を通って塩見城に向かっていますが、船に乗ったころにはもう夕暮れが迫っていたので「名にしおば、聞いて答えよ美々津なる、向かいに宿は有てるや無しやと」の一首を詠んで心配しています。