広報ひゅうが平成22(2011)年6月号

塩見城と高平城


塩見・権現原から望む塩見城跡


 塩見地区にある市営城山墓園は、塩見城跡の一部を利用しています。塩見城も日知屋城と同じように、伊東氏の支配を受けていた城で、伊東氏が島津氏に敗れたあとは、島津氏の支配下に入りました。
 塩見城は、南北朝時代(1331〜1391年)に土持氏が築いたと伝えられており、今でも城跡のあちこちで戦国時代の陶磁器を見つけることができます。また、城跡の北に連なる山の中には、敵の侵入を防ぐためにつくられた深い溝(堀切)の跡がいくつか残っており、かなり強固な城であったことがうかがわれます。
 一方、塩見城跡の西側に位置する中村地区にも高平城と呼ばれる古い城跡が残っています。この城跡は、あまり大きなものではありませんが、城跡の中央に掘られた溝の中からは戦国時代ごろの皿や茶わんの破片が発見されていますので、塩見城とほぼ同じころに利用されていたものと考えられます。
 もしかすると高平城は、塩見城の出城だったのかもしれませんので、周辺にはまだいくつかの城跡が残されている可能性もあります。
 ところで、伊東氏を破った島津氏は、塩見城に家臣を派遣していましたが、天正13(1586)年4月には島津氏の有力な家臣で、当時、宮崎城(宮崎市池内)を守っていた上井伊勢守が塩見城の視察に来ています。
 そのときの記録によれば、伊勢守は高城(木城町)から尾鈴山の麓を通って美々津まで行き、そこから船に乗って平岩に上陸しているようです。
 平岩からは、山沿いの道を通って塩見城に向かっていますが、船に乗ったころにはもう夕暮れが迫っていたので「名にしおば、聞いて答えよ美々津なる、向いに宿は有るや無しやと」の一首を詠んで心配しています。

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