広報ひゅうが平成22(2011)年5月号
日知屋幡浦の牧島山

細島上空から見た牧島山
奈良時代に成立した日本の歴史書「日本書紀」。その中の推古天皇20(612)年の条には「真蘇我よ蘇我の子らは、馬ならば日向の駒・・・」と書かれています。
これは、推古天皇が蘇我馬子に送った歌を引用したもので、「日向の馬に匹敵するほど優れており、将来が楽しみである」という意味です。
このことから、古代の日向国は、優駿の産地だったことがわかりますが、当時の牧場の所在地は今のところ不明です。
ただ県内には「牧」の字のつく地名が数か所に残っていますが、その大半は江戸時代に設置された馬の牧場の跡と考えられており、市内では細島商業港北側に「牧島山」があります。
ここは、江戸時代の初めごろに延岡藩が設けた官営牧場の跡で、海岸の岩場にあることから、風雨に強く、足腰に粘りのある名馬を産していたと言われており、当時は高値で売買されていたようです。
延岡藩は、牧島山を管理するために牧番人と呼ばれる役人を置いて、牧場の巡回や藩との連絡を担わせていましたが、元禄2(1689)年以後は、天領の役人が牧場を管理するようになり、駒捕りの際には富高陣屋から手代と足軽が出張し、日知屋、富高、平岩、財光寺の各村から400人ほどが動員されていました。
ちなみに牧島山には、30〜40頭の馬が放牧されていましたが、天保11(1840)年には、3頭の「男馬」が入札され、百十九文から百五十文ほどで売られています。
今も串間市の都井岬で見られるような、海岸の潮風にタテガミをなびかせる馬の群れが、かつて牧島山でも見られていたことを知る人は少ないでしょう。