広報ひゅうが平成22(2010)年11月号
塩見城山墓地にある「三俳人の墓」

塩見城山墓地にある「三俳人の墓」
江戸時代は町人文化が花開いた時代で、日向では五、七、五の俳諧が特に盛んでした。
当時、日向の国の俳諧には、飯肥から城ヶ崎(宮崎市赤江)にかけて広まったものと、延岡藩から広まったものの2系統があり、いずれ劣らぬ勢いで流行していました。
本市の歴史を振り返ってみると、美々津の俳諧は前者、富高のほうは後者の系統に属しているとも言われていますが、今のところ結論は出ません。
ところで、塩見の城山墓地に日向きっての俳人と讃えられた人たちの墓碑があります。
俗に「三俳人の墓」と呼ばれているもので、月雄(薩摩屋八右衛門)、佐藤仙吾、それに里十(大和屋治助)の3人の名を読みとることができます。
なかでも月雄の句は、天保8(1837)年に刊行された「春陽帳」という全国版の句集にも採用されていて、まさにこの道の第一人者であったことがうかがわれます。また仙吾はもともと医師として名声を得た人で、町内の子どもたちを寺小屋に集めて読み書きを教えていました。しかも飫肥の学者で有名な安井滄洲や、その子息軒(南陽)とも交流があり、細島を物見遊山に来た両名が、仙吾宅に泊ったこともありました。その点、里十は地味で、あまり表立った風評は伝わっていませんが、多くのお弟子さんを抱えていたと言われています。
ところで、これら江戸時代の文化人たちが、当時の社会を支配していたはずの武家から出ていないことには注意が必要です。当時、最新の文化活動に積極的だったのはまさに町人だったのです。
そして、こうした止めどない動きの中から明治維新が起こり、近代日本が生まれていったのです。