広報ひゅうが5平成22(2010)年7月号
財光寺の「打欠石包丁」*

財光寺の水田地帯で見つかった「石包丁」
財光寺中学校の周辺に広がる水日田地帯は、標高3〜5メートルほどの低地で、1万年ほど前までは入江だったと考えられています。
昭和63(1988)年、その場所で幹線水路の工事中に、弥生時代のものと思われる石包丁が発見されました。 この石包丁は、粘板岩と呼ばれるやわらかい石を利用し作られていて、ほぼ半分が割れて無くなった状態で見つかりました。教科書などに出てくる普通の石包丁には、ひもを通すための丸い穴があけられていますが、財光寺で見つかった石包丁には穴はなく、ひもを結びつけるために石の一端が打ち欠かれています。
このような石包丁を考古学では「打欠(うちかき)石包丁」と呼んでいて、県内では海岸部で発見されることが多い貴重なものです。
打欠石包丁は、瀬戸内海沿岸で数多く見つかっていることから、瀬戸内地方の人が財光寺にもたらしたものと考えられます。
日本の稲作は、現在では縄文時代後期から晩期にかけて始まったといわれていますが、当時は、まだ土木技術が発達していなかったので、もっぱら自然任せで稲を育てていたものと考えられます。
おそらく財光寺の縄文・弥生時代の人たちも、そのころ湿地になっていた入江の跡を利用して稲作を行っていたのでしょう。
ちなみに石包丁の発見場所に近い比良山の東麓では、弥生人たちが使った土器も多数見つかっていますので、当時、集落が営まれていたものと考えられます。
財光寺地区は、本市の穀倉地帯として今でも重要視されていますが、そのルーツは、遠い縄文・弥生時代にまでさかのぼることができます。