広報ひゅうが平成22(2010)年6月号

落鹿の「水路」と「石橋」


落鹿の水路と石橋


美々津の百町原では春先に植えられた早苗が、風に吹かれています。落鹿の集落は、お年寄りが「軍艦山」と呼ぶ山の麓に位置し、周辺の水田に水を供給する幅2メートルほどの水路が蛇行しており、ところどころに小さなアーチ石橋が架けられています。
 日本の石橋は江戸時代に長崎で誕生し、各地へ広まったと言われています。
 九州では、まず長崎から熊本に伝わり、そこから@九州山地に沿って福岡方面へ伝わったもの、A九州山地の奥く深くへ入り込んで行ったもの、B薩摩地方に下ったものに大別され、特に薩摩では独自の変化を遂げ、五大石橋(鹿児島市)のように流麗な意匠をまとうことになりました。
 市の有形文化財に指定されている富高の「本谷昭和橋」は、熊本から鹿児島を経由して宮崎へ入ってきた石橋の好例で、3連アーチが美しい昭和2(1928)年に架けられた近代の石橋として知られています。
 また東郷地区の坪谷川流域には野々崎橋、坪谷橋、瀬戸橋をはじめとする明治時代のアーチ石橋が架けられていて周辺の豊かな自然景観と相まって歴史の風情を感じさせています。架橋に当地出身の矢野力二翁が尽力したこともあり、本市の歴史を知るうえで欠くことのできない文化財です。
 さて、落鹿の石橋群は大正3(1914)年に旧東郷町寺迫の黒木為次郎と植野銀次郎によって架けられたもので9基が現存しています。
 これらの石橋は、どれも幅2〜3メートルの水路をまたぐように架けられており、コンクリートで覆われているものも見られますが、確かなアーチ石橋の技術をもとにしており、生活に密着した質実剛健な石橋として関係者の注目を集め、今も人びとの暮らしを支え続けています。

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