広報ひゅうが平成20(2008)年12月号

美々津地区にある豊後街道「道路元標」


細島の道路元標


 宮崎市の赤江から佐土原、都農、延岡を経て、大分に通じる道を、むかしは「豊後街道(ぶんごかいどう)」と呼んでいました。現在の国道10号線の道筋と重なる部分もありますが、なかにはすでに使われなくなった場所や、現在とまったく違ったルートを通っていた場所もあります。
 豊後街道がいつごろできたのか、についてははっきりしません。しかし、元禄14(1701)年の日向国絵図には、すでに街道が描かれていますのでかなり古い歴史があるのではないでしょうか。
 また、この絵図には「一里塚(いちりづか)」も描かれています。一里塚とは、江戸幕府の令で、江戸の日本橋を起点に全国に設置されたものです。大きな道路のそばに旅行者の目印として、1里(約4キロメートル)ごとに塚(土盛り)が設置されました。
 一里塚はかつて、旅をする人たちにとって、欠くことのできない標識の役割を果していました。やがて明治時代に入ると、一里塚にかわって石柱の標識が使われるようになります。
 美々津地区の新町から石並に向って歩くと、海岸に通じる交差点があり、付近に高さ1メートルほどの石柱が建っています。この石柱は、明治35(1902)年に建てられたもので、宮崎ー大分ー都農ー富高までの距離が刻んであります。このような石柱は「道路元標」と呼ばれていますが、細島コミュニティセンター前にもあり、かつては交通の要所に必ず建てられていました。
 残念なことに、「交差点の見通しが悪い」、「交通の邪魔になる」などの理由から、かつて惜しげもなく抜き取られてしまうことが少なくありませんでした。道路元標は、道の変遷を通して郷土の文化や経済の交流を物語ってくれる重要な遺物。これからもたいせつに保存しなければなりません。


日向市文化財でも紹介しています。ご覧ください。

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