広報ひゅうが平成20(2008)年8月号
富高・本谷の「昭和橋」

昭和橋
この橋を架けるときに中心的役割を担ったのは、門川町小園の小山宇太郎という人でした。宇太郎は、四国の丸亀で修行を積み、その後鹿児島の川内で技術を学んだようです。
宇太郎が住んでいた門川町小園地区には、昔からたくさんの石工たちが住んでいました。市内の亀崎地区にある「無田橋」もまた、小園地区の石工が手がけたものです。
本谷の「昭和橋」の特徴は、流麗な三連式のアーチ技法をとり入れていることです。とかく頑強さばかりが目につく石橋を、簡素で美しいデザインに仕上げています。また、「昭和橋」の工事には、本谷地区の多数の村人も参加したと伝えられています。
ところで、日本の石橋のルーツは、中国やポルトガルにあると考えられています。もともと日本には、お城の石垣などに見られるような伝統的な石積みの技術がありました。そのため異国からもたらされた「石橋の文化」も、比較的受け入れやすかったのでしょう。
九州地方は、全国的にも石橋が多いところです。ちなみに石橋が多く架けられている長崎市内には、17世紀ごろから架けられてきた石橋が現在も41か所残っています。
年間降雨量が多い九州地方では、昔から洪水による橋の流失に悩まされてきました。そのためにも、頑丈な石橋をつくる必要があったのでしょう。
市内には、明治時代より前に石橋がつくられたという記録はありません。
長崎の石橋に比べると、「昭和橋」はそれほど古いものではありませんが、私たちの先輩たちが地域の発展に努力していたことを示す貴重な文化遺産であることには間違いありません。