広報ひゅうが令和5(2023)年10月号

梶田山陰舊記ー百姓の窮状を記す


市指定有形文化財「梶田山陰舊記」


 元禄3(1690)年9月15日、延岡藩領山陰村、坪谷村の百姓1422人が高鍋藩領に逃散する一揆を起こしました。
 山陰の成願寺に伝わった「梶田山陰舊記」には、百姓が逃散に至った理由が12箇条記されています。
 その一部を見ると、「年貢は春に定め、風水害があれば検見(藩の役人が村々を調査し、年々の豊凶に応じて年貢量を決定する方法)を行うはずが、風水害があったにも関わらず検見が行われない」「椿を毎年50本植えるよう命じられたが、もはや畑の畦もふさぎ植える場所もない」「食事は雑炊とされたが、雑炊ならいい方で、蕨や葛の根のほか、木の実や茅の根も取りつくした。身命の維持もかなわない状況では他所へ立ち退くしかない」などと記されています。
 百姓が郡代(ぐんだい:郡の農村支配の責任者)の梶田十郎左衛門をはじめとする藩の役人による悪政により、厳しい生活を強いられていたことがわかります。
 百姓は延岡藩との交渉や高鍋藩の説得を経て、ようやく元禄4(1691)年7月に帰村します。この一揆には幕府も介入し、梶田と代官の大崎九左衛門は追放処分を受け、百姓側も代表者らが死罪や流罪の処分を受けています。
 また、一揆の責任を問われた延岡藩主・有馬清純も同年11月、縣(延岡)から越後国(新潟県)糸魚川へ転封となり、代わって譜代大名の三浦明敬が壬生(栃木県)から入り、最南端の譜代大名となります。また、日向市域では富高、塩見、日知屋、細島、財光寺、平岩、坪谷、下三ヶ村が幕府領となり、九州南部への幕府の影響力を強めることとなりました。


日向市文化財でも紹介しています。ご覧ください。

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