広報ひゅうが令和5(2023)年3月号
藤原惺窩の細島入港−近世儒学の祖
藤原惺窩は江戸時代初期の儒学者で、近世儒学の祖といわれます。多くの弟子を育て、徳川家康に仕えた林羅山らを輩出してます。
惺窩は公家の冷泉為純(れいぜいためずみ)の三男として生まれます。18歳の時に、父が土豪に攻められ敗死したため、叔父を頼って京都の相国寺に住み、禅の修行とともに儒学を志すようになりました。
やがて惺窩は、本場の儒学を学ぶために明(中国)に渡ることを計画します。慶長元(1596)年6月、明に渡る窓口となっている鹿児島を目指し京都を出発します。なんこらにっぎこの時の日記の一部は「南航日記残簡」と呼ばれ、今に伝わっています。大坂からは海路で瀬戸内海、豊後水道を進み、7月9日に島ノ浦(延岡市)に到着。翌10日午前8時頃、細島に入港します。
細島に上陸した惺窩は一寺(いちじ:妙国寺か)にて休息を取ります。ここでの景色について「岩上に建てられた寺、天に向かって伸びる老木、枝葉の間から見える複数の船、まさに絶景である」と評しています。
この寺では主僧から茶菓のもてなしを受け、惺窩は酒をすすめて応えています。また、船頭ら5、6人は町屋へ行き、風呂に入り、酒を飲んでいます。
惺窩は観音寺も遊観した後、この日の夜には鹿児島へ向けて出船します。
鹿児島にしばらく滞在した惺窩は秋から年末の頃に山川港(指宿市)を出港し明へ向かいます。しかし、途中大風にあって鬼界ヶ島(きかいがしま)に漂着し、翌年の夏頃まで同島に滞在したとされています。明への渡航は叶いませんでしたが、その後、朝鮮の朱子学者である姜(きょうこう)と交流するなど学問を深め、多くの弟子を育てました。