広報ひゅうが令和5(2023)年2月号

日向路を行く高山彦九郎−寛政の三奇人の一人


高山彦九郎を泊めた那須藤右衛門夫婦の墓


 寛政の三奇人(傑出した人物)と寛称される林子平、蒲生君平、高山彦九郎(ひこくろう)のうち、高山彦九郎は寛政4(1792)年、日向路を旅しています。
 彦九郎は、延享4(1747)年、上野国新田郡細谷村(現群馬県太田市)に生まれ、京や江戸で学んだ後、各地で尊王思想を遊説して回ります。この行動は幕末の志士たちに多くの影響を与えたといわれています。
 また彦九郎は、多くの旅日記を残しており、寛政3(1791)年から自身最後となる中国、九州路の旅でも日記を記しています。
 京を出発し九州に入った彦九郎は、北部九州を巡った後、熊本に入り、人吉、米良、高鍋を経て北上し、寛政4年閏2月16日に都農から美々津に入り、ここで一宿します。美々津は「町家七百軒千軒と称す」と記しており、多くの町家が立ち並び、賑わう様子が伝わってくるようです。
 翌日は耳川を渡り、幸脇から耳川に沿い飯谷、鳥川、広瀬、福瀬と進み小野田で休憩します。小野田では、平太郎という者から人吉にいる縁者への伝言も頼まれています。
 小野田を発った彦九郎は耳川を渡って羽坂に入り、仲瀬を経て坪屋村庄屋・那須藤右衛門の家に宿泊します。
 翌日には鎌柄の峠を越え、児洗、中水流を越え、神門、椎葉へと向かっていきます。この後、鹿児島に滞在した彦九郎は再び7月に都城、飫肥、宮崎、佐土原、高鍋と日向路を北上します。しかし、この時に日向市城を通過した期間の日記を欠いており、彦九郎がどのような行動を取り、町のようすなどをどう記録したのかは明らかではありません。

目次へ戻る