広報ひゅうが令和4(2022)年12月号

本草学者・賀来飛霞−県北の植物を調査


賀来飛躍も見た塩見橋(右側の橋、昭和10年頃、「日向写真帳」より転載)


 弘化2(1845)年、延岡藩は本草学の振興と藩財政の立て直しを目的に、豊後の本草(植物)学者・賀来飛霞(かくひか)を招き、藩内の薬草を調査します。飛霞は800種を超える植物を始め、動物や人々の生活のようすなどを「高千穂採薬記』にまとめます。
 3月6日に佐田村(現・宇佐市安心院町)を出発した飛霞は、現在の宮崎県に入ってからは延岡、日之影、門川、美郷、諸塚の各所を回り、本市域へと入ります。
 4月5日、水清谷(南郷)を出て、田代(西郷)の大庄屋(おおじょうや)宅で休息し、川舟で耳川を下り八重原庄屋宅に宿泊。急流を下る舟は矢のようで、船底板も薄く岩に当たる感覚が伝わってくるが、船頭が3間(約5.46メートル)もある長刀形(なぎなたがた)の木でうまく操船していると記しています。
 翌日、八重原から川舟で下り、山陰大庄屋宅で休息しますが、庄屋は70歳を超え、最近隠居した身であるとして面会しませんでした。
 休息後、富高新町に向かいます。新町を「一筋の町ながらいい町で、各家の軒先には鳥籠(とりかご)が下げられている」と記しており、当時の富高新町のようすの一端を伺い知ることができます。
 飛霞は、新町の南に架かる塩見橋も見ており、錦帯橋のような橋であると評しています。当時の塩見橋は橋の途中2か所に石垣を積み上げた馬寄せ場があり、宝珠(ほうじゅ)のついた欄干もあったということから、錦帯橋を思い起こしたのでしょう。採集の旅で全国を歩いた飛霞ならではの例えでしょうか。
 この日のうちに富高新町を出た飛霞は、門川の大庄屋宅に宿泊し、翌日以降も北上し、5月15日に帰宅し調査の旅を終えています。

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