広報ひゅうが令和4(2022)年10月号
米良大膳毒殺事件

江戸の名残を残していた頃の細島(「日向写真帖」から転載昭和44年8月撮影)
米良山は、現在の西米良村と西都市、木城町の一部を含む地域で、江戸時代、人吉藩の支配のもと、領主の米良氏が治めていました。米良氏は幕府から交代寄合旗本(3000石以上の無役の旗本で参動する寄合)とされ、おおよそ5年に1度、江戸へ参動しています。その経路は、板谷から人吉へ出て北上する西廻りコース、渡川から細島へ出てそこから乗船する東廻りコースの二つがありました。
東廻りコースを進んだ貞享元(1684)年春、細島で事件は起こります。領主・米良則信一行のうち家老・米良大膳(だいぜん)が夜に高熱を発し重体になり、看病むなしく亡くなってしまうのです。この時、大膳は歯が黒ずみ、息が臭く、黒色の物体を吐き出し、食あたりのような症状がみられました。
また、看病を受ける大膳が語ったことによれば、米良源太夫宅で吸い物や酒、茶などを振舞われ、その後気分が悪くなったといいます。
大膳の亡骸は米良山に送られますが、途中で解け落ち腐敗したため、毒殺が疑われました。
疑惑の源太夫には、同氏宅で飲食をした者が体調を悪化させたなどの噂がありました。噂の中には、源太夫の子が指示なく細島に則信を迎えに行き、茶を則信に進めた事や、則信が米良山への帰途、坪屋村に宿泊した際、源太夫の子が酒や弁当に近付こうとした事など本市城内の事もありました。
事件の結果、源太夫らは切腹させられた一方、人吉藩に断りなく切腹を命じた米良氏も藩に詫びを入れています。この事件は、米良氏領内の政争の実態や人吉藩と米良氏の支配権を明らかにする重要な事件にもなりました。