広報ひゅうが令和4(2022)年7月号
六十六部廻国供養塔

一谷原の六十六部廻国供養塔
坪谷一谷原に、天保9(1838)年建立の六十六部迴国供養塔と呼ばれる石塔があります。
六十六部迴国供養塔とは、六十六部行者(六部行者、廻国聖などともいう)と呼ばれる諸国を巡礼する行者に結縁(けちえん:世の人が仏法と縁を結ぶ「こと。仏法に触れることによって未来の成仏・得道の可能性を得ること)して建立された供養塔のことをいいます。この巡礼は、法華経を書写して全国の六十六カ国の霊場に一部ずつ納経して満願結縁する巡礼行を指します。
讃岐国(現在の香川県)の芳之助は、妻と息子の吉三郎で諸国を巡礼しています。しかし、吉三郎が巡礼中に亡くなったため、この地に供養塔を建立することになりました。供養塔に「童子」と刻まれていることから、吉三郎はまだ小さい子だったと考えられます。
供養塔には、坪屋村の世話人5人、宿主の庄蔵の名前も刻まれており、地元の村人も死後の対応に協力しています。この他、供養塔には六部の名前も刻まれていますが、これらは巡礼中に吉三郎が亡くなったことを知り、墓石建立まで世話をした者と考えられます。
また、坪谷からさらに山深い越表の中水流にも廻国供養塔があります。こちらは文政12(1829)年に建立されたものですが、劣化が進み、判読できない文字も多くなっています。
江戸時代、人々の自由な移動は制限されていました。しかし、行者は特定の会所に所属することで、ある程度諸国を自由に巡礼することが許されていたとされます。
これらの供養塔は、巡りの文化がこの地にも及んでいたことを伝える貴重な資料です。