広報ひゅうが平成19(2007)年10月号
山陰城

山陰城
東郷町冠岳の向いに小高くそびえる立山の尾根には、中世の山城である山陰城が築かれています。
城というと一般的には、がっしりとした石垣の上に白壁が連なり、その上に立派な天守閣(てんしゅかく)がそびえているような姿がイメージされがちですが、それらは主に戦国時代末期から江戸時代のお城です。
中世の山城は室町時代の南北朝争乱期から戦国時代にかけて盛んに築城されますが、城には白壁や天守閣などはありませんでした。城という漢字が「土」偏に「成」と表示されるように、堀を掘った土を掻き上げて土塁(どるい)にしたり、曲輪(くるわ)の配置を整えたりするもので、建築工事というよりも土木工事に近いものがありました。
縄を張って築城していったことから今日では見取り図のことを「縄張り図」といっています。
力が及ぶ範囲のことを「ナワバリ」といいますが、城の「縄張り」が語源であるともいいます。
こうした中世の山城が劇的に近世の城へ変化したのは、鉄砲の伝来と豊臣秀吉の全国支配に伴う大名の配置換え等に大きく起因しています。鉄砲等の飛距離を考慮して堀が大きくなり、城への入口となる虎口がより強固に改良されていき、豪壮かつ機能美を有する近世の城郭(じょうかく)へと変貌していきます。
山陰城は立山から南西方向に舌状に伸びた尾根に築城され、尾根の付け根部分を掘り切って独立した城域を保持しています。主郭となる二段の曲輪の先端には一段高い小型の曲輪を配置し、周辺状況の見通しが利くようにしています。
さらに城域全体を取り巻くように通路を兼ねた腰曲輪(こしぐるわ)が取り付けられています。比較的単純な曲輪の配置ですが、集落との比高差が約150mもあり、県内でも屈指の山城といえるでしょう。
また、谷を挟んだ東郷病院の裏山にも曲輪や堀切(ほりきり)等が設けられており、出城的な役割を果たしたのではないかと思われます。
明確な築城年代は不明ですが、古い記録や城の形態等から、鎌倉時代から室町時代の築城ではないかとされています。
伊東四十八城にも数えられ、島津氏と伊東氏が戦った元亀2(1571)年の木崎原の戦いでは都甲兵部丞らが山陰衆として出陣しています。