広報ひゅうが令和3(2021)年12月号
上井覚兼日記にみる−三城地域での狩り

吉利忠澄が居城とした塩見城跡
天正6(1578)年1月、高城耳川合戦で大友氏を破った島津氏は、本市域を含む日向国北部へと支配領域を拡大します。
そして、日向三城と言われた日知屋、塩見、門川にはそれぞれ井尻祐貞(いじりすけさだ)、吉利忠澄(よしとしただずみ)、伊地知重政(いぢちしげまさ)が地頭として配されています。
この三城を含む地域の地頭を統括する立場にあったのが、島津氏の老中でもある宮崎地頭の上井覚兼(うわいかくけん)です。覚兼は日々の出来事を細かく日記に記しており、当時の戦国武将の公私にわたる生活を知る事のできる貴重な史料となっています。
この日記によると、覚兼は、天正13(1585)年4月、忠澄に誘われ三城に狩りに出かけています。6日に宮崎を出発し、8日に平岩で宿泊し、9日は雨のため狩りができないまま、塩見に入ります。
そして、翌10日、日知屋、塩見、美々津のほか、俣江(またえ:山陰)、坪屋の1000人を動員して狩りを行い、猪、鹿を50頭ほど獲て、夜には忠澄の館で風呂をあびています。
11日には、畑浦で狩りを行っていますが、江戸時代には牧島山に畑浦牧(まき)があったことから、狩場は牧島山だと考えられています。
覚兼は狩りのほか、接待や物品の献上を受けながら過ごし、16日に宮崎への帰路に着きます。途中14日には、覚兼の射た猪に忠澄が3か所噛まれ怪我する事件も起こっています。
大規模な動員を伴う狩りは、軍事演習の意味合いもあります。人々を動員し、獲物を追い込む統制の取れた動きが必要とされたからです。この時期、島津氏は北部九州攻略を進めており、覚兼や忠澄にも遊興のほかに、この地域の巡見や軍事訓練の意図があったのかもしれません。