広報ひゅうが令和3(2021)年9月号

水田を潤す水を確保−白浜用水


辰三郎の功績を讃える石碑


 東郷町鶴野内の耳川右岸に白浜という地区があります。
 江戸時代、白浜には20町歩(およそ20ヘクタール)の農地があったと言われます。しかし、水源が乏しく、雨が降らないと十分な収穫ができないことに村人は悩んでいました。
 そこで、山陰村鶴野内生まれの三原辰三郎(みはらたつきぶろう)は、90歳にもなろうかという年齢にも関わらず、用水路の開削を延岡藩に願い出て、開削を始めます。
 機械もない時代であり、鑿(のみ)や鶴嘴(つるはし)などを使用し、大金も費やし、途中1キロメートルは硬い岩もありながらも少しずつ掘り進め、ついに3年の月日をかけ全長1里(およそ4キロメートル)の開削を見事に完成させます。この用水の完成により、水を確保した白浜地区は実り豊かな土地に生まれ変わりました。
 嘉永4(1851)年11月、鶴野内の人々は辰三郎の功績を讃え、将来にわたり伝えていくため石碑を建立したのです。
 また、この白浜用水をめぐっては、八重原(はえばる)神社に天井絵を寄進した山本丞助(じょうすけ)という侍が「絶対に貫通しない、貫通したならば腹を切る」)と主張し、その後、用水が貫通したため切腹したという話も伝わっています。これは、命を懸けるほどの難工事だったことを表す言い伝えといえます。
 辰三郎らの苦労により完成した用水路ですが、明治13(1880)年夏、耳川の大洪水により水田や用水路が流出、破壊される大きな被害を受けています。この時すでに辰三郎は亡くなっていたため、子の岩吉、孫の辰蔵が用水路の復旧に努めましたが、その後も相次ぐ洪水に復旧を果たすには至りませんでした。

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