広報ひゅうが令和3(2021)年8月号

日向国内幕府領支配の拠点−富高陣屋


陣屋のあった幸福神社


 元禄3(1690)年9月、山陰・坪屋村の百姓が高鍋藩領へ逃散する一揆が起こります。
 この一揆の結果、元禄5(1692)年に延岡藩主有馬清純(きよすみ)は越後国糸魚川(新潟県糸魚川市)へ転封となり、旧有馬氏領のうち2万7000石が幕府領となります。この時、本市域では、富高・日知屋・財光寺・平岩・塩見・坪屋・下三ヶ村・山陰村の一部(山陰村の一部は、後に延岡藩領になる)が幕府領になりました。
 同年、幕府は幕府領支配のため、有馬氏が細島に置いていた分一運上取立番所(ぶいちうんじょうとりたてばんしょ)を利用し、陣屋を置きます。陣屋には手代(てだい)や手附(てつけ)と呼ばれる役職の者が2、3人配置され、職務に当たっていました。
 その後、元文2(1737)年5月、日田代官岡田俊惟(としただ)は細島陣屋の老朽化や細島の町場が狭いことを理由に、富高新町の旧大庄屋(おおじょうや)屋敷(現在の幸福神社付近)に移転したい旨の伺いを幕府へ提出。同年1月、富高新町への移転が実現します。
 陣屋はその後、寛保3(1743)年に宮崎郡下北村(宮崎市)に移転しますが、延享4(1747)年には再び富高に陣屋が戻り、幕末まで日向国内の幕府領支配の拠点となりました。
 明治時代以降は、美々津県庁舎や町役場として活用されます。また、昭和4(1929)年、同12(1937)年には、老朽化のため新町共済会が門の修繕を行うという新聞記事もあり、維持に努めていたことがわかります。
 しかし、老朽化が進行したため、戦前には町役場の建て替えに伴い取り壊されます。長屋門は戦後まで残されていましたが、こちらも取り壊され、現在は残っていません。

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