広報ひゅうが令和3(2021)年7月号
六道からの救済を願う−老谷の六地蔵供養塔

老谷の六地蔵供養塔
山陰城跡(東郷町小野田区)の西側の市道沿いに、高さ3メートルの市指定有形文化財「老谷(おいだに)の六地蔵供養塔(ろくじぞうくようとう)」が建っています。この供養塔は、天文12(1543)年11月に都甲丹波守安親(とこうたんばのかみやすちか)が建てたものです。
供養塔は上から宝珠、笠、仏龕(ぶつがん)、竿石(さおいし)、基礎の各部で構成され、仏龕の六面には地蔵菩薩像が彫られています。また、竿石には梵字「キャ・カ・ラ・バ・ア(空・風・火・水・地)」と願文、施主などが刻まれています。この供養塔は、安親が戦死した配下の者を弔うために建てたといわれます。
仏龕の六面には地蔵菩薩像が彫られていますが、これは仏教において、人間は死後に六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)に進み、六道のそれぞれに地蔵菩薩が姿を現し、そこで苦しむ人々を救い導くという考え方に基づくものです。こうした地蔵信仰が広がっていくなかで、墓地の入口などに六地蔵供養塔を建立し、死者の冥福を祈りました。
この供養塔を建てた都甲安親は山陰の所衆とみられます。所衆は城の周辺に居住し、城やその周辺領域を守る立場にありました。
安親は、供養塔造立後、日向国への進出をうかがう島津氏を抑えるため、現在のえびの市方面に伊東氏側として出陣します。しかし、元亀3(1572)年5月、伊東氏は島津義弘の率いる島津勢に敗れ(木崎原合戦)、安親も戦死しています。
安親の建立した供養塔は当時の地蔵信仰や石造建築物を知る上でも貴重な資料です。市内には、老谷以外にも六地蔵供養塔が残され、地蔵の姿が彫られたものや、文字のみを刻んだものがあります。見つけた際には、じっくり観察してはいかがでしょうか。
日向市文化財でも紹介しています。ご覧ください。