広報ひゅうが令和3(2021)年4月号
官軍兵士が眠る細島官軍墓地

320人が眠る細島官軍墓地
明治10(1877年)年2月に起きた西南戦争では薩軍、官軍(明治政府軍)合わせて9万人余りが南九州の各地で戦闘を行いました。市内でも耳川流域を中心に激しい戦闘が繰り広げられ、物量に勝る官軍に耳川を突破された西郷隆盛らは延岡、高千穂方面でも敗走を重ねていき、9月、鹿児島の城山の戦いで西郷が自刃し、戦いは終結します。
細島にある官軍墓地は明治11(1878)年4月に開設されたとされ、この戦いに官軍として従軍し、戦病死した兵士ら320人の官軍兵士が葬られています。県内一にはえびの市や高千穂町にも官軍墓地がありますが、細島は県内最大の官軍墓地です。
官軍墓地は、長年の風雨により墓石の劣化が進み、また、戦後の食糧難の頃には敷地の一部が芋や麦畑になるなど、荒廃した時期もありました。市では平成6(1994)年度に史跡として整備し、劣化の激しい墓石を中心に復元したものと入れ替え、元の墓石は敷地内で保管しています。
墓石は、被葬者の軍における階級に応じて6通りの規格があり、陸軍少佐・迫田鐵五郎(鹿児島県出身)のものを最大に、警部補、巡査、軍夫などの順で小さくなります。
墓石の4面には官職・名前・所属部隊・死亡年月日・死亡場所・出身地・族称が刻まれています。死亡場所を見ると、雨で増水した耳川や市街地での戦闘で亡くなった兵士など当時の市域での戦闘の一端も読み取れます。
最も大きな墓石の迫田は可愛岳(えのだけ:延岡市)で戦死しています。細島みなと資料館には迫田にまつわる資料も展示されています。官軍墓地と併せて見学してみてはいかがでしょうか。