広報ひゅうが平成30(2018)年8月号
「西南の役」史跡の調査

砲台場跡で採集した鉛製の弾丸
今年のNHK大河ドラマ「西郷どん」の影響で、延岡市北川にある西郷隆盛宿陣跡資料館は入館者が増加しているようです。
資料館では、「和田越えの戦い」の後、官軍に包囲され、追い詰められた最後の軍議の様子を再現した人形や遺品などの関連資料が展示されており、その解説を詳しく聞くことができます。
本市でも「西南の役」に関連する史跡や伝承が多く残されています。
「和田越えの戦い」よりも前になりますが、耳川流域においても激しい戦闘が行われており、先日、薩軍陣地の現地調査を実施したので紹介します。
まず、東郷町福瀬区鳥川の裏山には、険しい山の尾根を利用して6基の塹壕が構築されていました。
塹壕とは、身を隠すための穴で、掘った土を土塁として前方に盛り上げるのが一般的ですが、ここでは、土塁の中に石を積んで補強しているものもありました。
また、塹壕の周辺からは、薩軍が落としたと思われる鉄製の弾丸を2個採集することができました。
同じ福瀬区の崎山では、山頂部分を利用してコの字型に土塁を配置した砲台場跡がありました。
この地は耳川が大きく蛇行して岬状になっており、山も険しく攻略が難しい場所と言えるでしょう。
さらに眼下には、舟の渡し場や福瀬集落、それらを繋ぐ峠道を抑えており、対岸の宮ヶ原や広瀬に押し寄せる官軍を迎え撃つ格好の場所となっています。
この砲台場からは鉛製の弾丸と薬莢(やっきょう)を一つずつ採集しました。
薬莢は当時官軍が使用していたスナイドル銃のもので、この地が官軍の手に落ちたことを物語っています。
市教育委員会では、今後も現地調査を続け、「西南の役」における耳川流域での戦いの様相を解明していきますので、ご理解とご協力をお願いします。