広報ひゅうが平成19(2007)年5月号
木喰行道上人

勝軍地蔵尊坐像
木喰上人とは、米や穀物を絶ち、木の実や野菜だけを食べて修業する僧侶のことです。
日向と深いかかわりをもつ木喰上人としては、江戸時代の初期に甲斐国(山梨県)で生まれ、五十六歳のときに諸国行脚の旅に出た木喰行道上人をあげることができます。
木喰行道は、天明8(1788)年に日向国へ来て、国分寺(西都市)の住職となりましたが、三年後に寺の本堂が火事で焼けてしまいました。
そこで、日向国内を東奔西走して施主を募り、国分寺再建の浄財(寄付)を集めてまわりましたが、そのお礼に仏像などを彫ってあげることもあったようです。
県内では、これまでに西都市をはじめ宮崎市、佐土原市、清武町などから木喰行道のつくった彫刻が発見されていますが、そのほとんどが浄財を集めていたころの作品です。
日向市でも、平岩の笹野で勝軍地蔵尊坐像(しょうぐんじぞうそんざぞう)や阿弥陀如来像(あみだにょらいぞう)、疱瘡神像(ほうそうがみぞう)、利剣六字名号(りけんろくじみょうごう)の掛軸などが発見されており、富高・西川内で発見された十一面観音像とともに市の文化財に指定されています。
もともと木喰行道のような修業僧は、武士や貴族よりも庶民に親しまれ、尊敬されていましたので、笹野や西川内の人々も木喰行道の衷心を察して浄財を提供し、国分寺の再建に協力したのでしょう。
名もない庶民に支えられていた木喰行道は、わずか二年間で国分寺の再建を果たしています。
そして、寛政9(1797)年に日向国を去り、再び修業の旅に出ましたが、旅の途中でつぎのような和歌をつくっています。
「皆人の姿かたちはみゆれども心の姿みる人もなし」
「あさましや宝と思ふ金銭を捨る命は宝ならずや」
日向市文化財でも紹介しています。ご覧ください。